宇宙の真理について学習する

生きる上での、根本的問いかけ

自分は何者なのか。どこから来てどこへ行くのか。 
生命とは何か。生きる意味はどこにあるのか。 
存在とは何か。宇宙はどのようにして出来上がり、どのような構造をしているのか。 

この命題に対する答えを、あなたは持っているでしょうか? 答えを持たなくても、人は生きていくことが出来ます。忙しくしていれば、これらの問いに心をくだくことさえも忘れてしまうことでしょう。けれども、ふと立ち止まった時に沸き上がってくる、これらの根本的問いかけ。
 

哲学に答えを見出すことは不可能

その答えを模索して、人は哲学というものを考え出しました。しかし、いくら哲学を推し進めたとしても、これらの命題に答えを見出すことは不可能です。なぜなら、人はみな死ぬからです。 死んだら自分はどうなるのか? 死ぬことが分かっているのに生きる意味があるのか? そこが明らかにならなければ、自分は何者なのか、生命とは何か、存在とは何かの答えが出るはずがありません。
 
死後世界を考慮しない哲学では、死後を「虚無」としかみなしません。しかしこれは、言葉を弄した逃げに過ぎません。「無」とはいったい何か? もし「無」とはこれこれしかじかのものだと定義できたとしたら、それは「無」ではなく「有」ということになって、矛盾が生じます。このことから解ることは、死の先が無いとする考え方には、どうやっても無理があるということです。 
 

古代より伝えられて来た変わらぬ真理

宇宙には始まりも終わりもなく、したがって「無」はなく、永遠の変化のみがある。そして、この永遠の輪廻の営みこそが「生命」の実相なのである。これは、古代より伝えられてきた変わらぬ智恵です。この世でいう「死」は消滅ではなく、変化の一局面に過ぎないということも、変わらぬ真理として伝えられてきました。 
 
あなたの周囲にある物や、あなたの身に起きる出来事を、改めて眺めてみてください。そこに、原因なくして生じたものが一つでもあるでしょうか? 物事には、必ずそれを生じさせた原因というものがあるということに、すぐに気づかれるはずです。何事も、原因があって、結果が生じる。これを因果律と言います。 
 
この因果律を敷衍(ふえん:推し拡げること)すれば、あなたが存在することにも原因があり、宇宙が存在することにも原因があるということになります。言葉を変えれば、私たちは「原因」という世界の中に生かされた、「結果」ということになるのです。この「原因」の世界のことを「因の世界」と呼んでいます。 
 

因の世界を知る

私たちは今、みな自分の肉体というものを持ち、時空間概念のある物質的世界に暮らしています。そして、その中に埋没しているために、この世界のみが宇宙の全てだと錯覚しています。けれども宇宙は、それだけではありません。物質を超えた世界もあるのです。それが、肉体の死後も続く世界、「因の世界」です。 
 
物質的世界に暮らす私たちから見れば、死後の世界はあちら側に見えますが、そうではありません。この世とあの世は表と裏という関係ではなく、あの世の中にこの世が含まれているのです。私たちが住む物質的世界というのは、多次元的宇宙の中の、極めて限定された領域の次元に過ぎないのです。
 

宇宙の真理を学ぶ意義

「宇宙の真理」を学ぶ理由は、そこにあります。「真理」とは、真(まこと)の理法、つまり全宇宙を司っているセオリーのことを言います。私たちが暮らす物質的世界は、全宇宙の中に包含された限定的世界ですから、当然のことながら、このセオリーの影響下にあります。ところが、殆どの人が、この「宇宙の真理」を知らないのです。
 
宗教もそれぞれが独自の理屈を打ち立てて、間違ったことを教えています。我こそが正しい、他はみな邪宗、邪教だという主張に、真理はありません。寛容さを持たないものは、そもそも真理とは呼べないのです。なぜなら、「宇宙の真理」とは全てを包含するものだからです。つまり真理は一つです。One is all. All is one. 
 
ということは、古代にも現代にも通じ、どんな地域にも、どんな人にも、普遍性を持ったもののみが真理だということです。それは師から弟子へと伝えられるものではなく、また聖書・聖典によって伝えられるものではないのです。真理は、ただ今、そこにある。あなたの目の前に。あなたの周囲の空間に。 
 
あなたは、自分でそれを、直接つかみに行けばよいのです。みんながそうすればよいのです。そして、それは出来るのです。だからこそ、普遍性を持った真理と成り得るのです。 
「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。扉を叩けよ、さらば開かれん。」 
この言葉は、真実を語っています。 
 
『虹の学校』は、ブレーク・スルーに至る、そのきっかけを提供します。