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「信仰」ということについて

2013.6.5(水)

信じて仰ぐと書く「信仰」。どんな宗教であっても、「信じなさい」「疑ってはなりません」と説き、「信仰」の大切さを強調しています。「信仰」はその宗教が拠って立つ基盤です。「信仰」なくして宗教は成り立ちません。

しかしいったい何を「信じなさい」「疑ってはなりません」と言うのでしょうか? これは通常、その宗教のご本尊、つまり礼拝の対象とその教えということになりますね。しかしこの「信」は、「信」なるがゆえに、宗教が持つ本質的な問題を孕んでいると言えます。

それはどの宗教も、「我がご本尊、わが教えこそ正しい」と主張して止まないことです。そこに強い「信」が加われば、「自分たち以外は邪」として排斥するという思想になりかねません。実際それが、これまでの宗教の歴史です。

しかしそれは、宗教の本来の目的とは真反対であることは自明です。宗教の名のもとに戦争を行うくらいなら、宗教などない方がまだましです。いったいどうして、そんな馬鹿なことが起きてしまうのでしょうか。

今と違い、昔は文盲率も高く、知恵ある情報はごく限られていました。そうした中で、宗教が発する情報は群を抜いてレベルの高いものだったと思います。苦しい生活から救われるためには、限られたその情報を「信じる」、つまり「信仰」に身を捧げるしかなかったことは容易に想像できます。

しかし今は、いつでもどこでもインターネットを通じてあらゆる情報が瞬時に取得できる時代です。そうした環境下で、宗教が発する特定の情報だけを「信じなさい」と言ってももはや無理ですし、「信じる」ことを徹底しようとすれば、他の情報を遮断するしかなくなってきます。

これでは、宗教は洗脳とカルトにしか向かいません。一方そうでなければ、正月の神社参りやお葬式のときのお寺さん任せに見られるように、形骸化した宗教として生き残っていくしかありません。

ですから私は、「信じるな」と言いたいです。「信じる」からこそ盲目になり、簡単に洗脳の餌食になってしまう。現代人には「信じない」強さが必要だと思います。今の時代に「信じる」ことは、もう時代感覚に合わないと思うのです。

そうではなくて「疑う」。徹底して「疑う」ことが必要だと思います。ただし、疑いっぱなしではなくて、必ず調べてみる。そこが重要です。よく、世の中の不思議現象を全部インチキと決めつけた上で、そこに合致した情報だけを掻き集めて披瀝する方がおられますが、こうした態度は科学的とは申せません。

世の中に表れた現象は「結果」です。それが「答え」なのです。方程式で言えば「y」に当たります。その「y」を構成する「x」を探っていくのが自然科学です。「y」に現に不思議現象が表れているのに、それを錯覚、インチキと決めつけるのは、出発からして間違っています。その証拠として「x」を集めても、意味がありません。

今の時代は、調べることについては門戸が開放されており、誰でもどこでも相当なことができるようになりました。ですから、疑った後に、徹底して調べることが可能です。疑って、疑って、調べて、調べて、それでもなおかつ解らない。こうなったらもう「信じる」しかない。

ここに至って初めて、現代に相応しい「信仰」となるのではないでしょうか。ただ信じている「信仰」ではダメです。疑って、疑って、疑い続けて追求した結果、もう「信じる」しかない。そこまで行ったときに不思議なことに神体験がポーンと下りて来る。

その神は、もはや特定の神ではありません。万人に等しく在る神です。そして、その神との一体感が自然と湧き上がったときにこそ、本当の「信仰」というものが生まれるのだと思います。