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はじめに

1990年代の初頭、私は当時青山にあった瞑想センターに通い「坐禅」に取り組んでいました。しかし当初は週に2回だった訪問が、そのうち週に1回になり、2週に1回になり、だんだん足が遠のいて、ついには一年半ほどで通うのをやめてしまいました。早い話が、ものにならなかったのです。

人は、何かに取り組んだときには、成果が欲しいものです。しかしこの時の「坐禅」は、なんら目立った成果を自分に与えてはくれませんでした。焦ってはいけないと思いつつも、何も得られない時間の連続にはとても耐えられませんでした。こうして私は、最初の「瞑想」への取り組みに挫折してしまいました。

このときの私と同じように、これまで「瞑想」に取り組んだ人の多くに、成果が得られぬまま「瞑想」を断念してしまわれた方がいるのではないでしょうか? ところが2007年になって、私はあるきっかけから突如「瞑想」を再開しました。以来、今日にいたるまで、一日足りとも「瞑想」を欠かすことがなくなりました。つまり、完全に習慣化されたのです。劇的な変化です。

この突然の飛躍に至るまでには、結局15年を要したわけですが、その間、習慣化に向けて努力し続けたということは全くありませんでした。「瞑想」など忘れてしまっていたのです。しかし本当に、ある日を境に一変してしまったのでした。どうして、そんなことが起こったのでしょうか?

結論を言いますと、「坐禅」を捨てたのです。
そう言うと、「えっ」と思われる方も多いでしょう。
「坐禅」を捨てた? 「坐禅」を捨てたのに「瞑想」を習慣化したというのは、いったいどういうことかと。

ある日、NHKの教育TVを見ていましたら、一人の禅宗の僧侶がこんなことを話しているのが目にとまりました。
「自分は、10代のころから寺で修行し、必死に『坐禅』に取り組んできた。けれども煩悩ばかりが浮かんでちっとも行が進まない。それで悩みに悩んだ末、60歳を過ぎてからハタと気がついた。ありのままでいいんだ。その苦しんでいる状態のままでいいんだ。そう思ったとき、今までの悩みが氷解し、やっと悟りを得ることができた‥‥」

それを聞いて、私はびっくりしてしまいました。
ただ「ありのままでいい」ということに気づくために、40年以上も坐り続けたのかと。
そしてそれが「坐禅」の真髄なのかと。

私にはいささか抵抗感があります。
お釈迦様は、六年麻麦の苦行を終えた後、菩提樹の下で7日間ひとり静かに瞑想をし続け、それで悟りを得たと言われています。
その悟りとは、具体的には「縁起の法」「四諦の門」のセオリー発見です。

この世に不変の絶対的な存在など何ひとつなく、みな縁によって生じ、縁によって滅するだけである。あらゆるものは因縁によって変化してゆく。(「縁起の法」
人生が苦しいのは、この真理に気づかず、無いものを有ると信じ、そこに執着することで、自分で苦しみの因(もと)を集めているからである。しかし、それを滅する道がある。それを私は見つけたぞ。(苦集滅道の「四諦の門」

ここには、空、無常、輪廻が同時に説かれています。
お釈迦様が「瞑想」することによって得た悟りは、決して「ありのままでいい」ということなどではなかったと思うのです。

「瞑想」によって、過去世から来世までを見通す知見を得たからこそ、早い話がそのような超能力を得たからこそ、「縁起の法」という普遍的原理を発見したのです。
そこには実際的な、また実効的な何かがあったはずなのです。またそうでなければ、多くの宗教が「瞑想」習慣を勧める理由が解りません。

私は、自分が「坐禅」を試みて失敗し、「坐禅」を捨てたことで「瞑想」を習慣化できた体験から、このように結論づけます。
「坐禅」は「瞑想」には不向きである、と。

多くの人は、「瞑想」=「坐禅」と思っています。
私もかつてはそうでしたが、「坐禅」は「瞑想」を行うに際しての、一つの技法に過ぎません。
しかもあまり「瞑想」には適していない技法です。だからこそ、多くの人が習慣化できないのです。

「坐禅」を完全に否定するわけではありませんが、「瞑想」をするのならば、もっとよい方法がある、ということをお伝えしたいのです。
「坐禅」は「瞑想」をあまりにも観念的に、難しくし過ぎてしまいました。

これはインドのヨーガ(瑜伽(ユガ)行)が日本に伝来してくる間に形式が変化し、解釈も様々なものが生じていった結果だと思います。

ヨーガそのものは、非常に実践的な「瞑想」のカリキュラムであり、 4世紀ころまでにはすでに体系化されていました。
しかしこのカリキュラムは日本へは部分的にしか伝わらず、「瞑想」の境地という部分のみが仏教において観念的に解釈され、日本に定着していきました。
そして、もともとのヨーガは換骨奪胎され、単なる健康法として今日に伝えられているというのが実情です。

しかし、仏教で説く様々な「悟り」の境地と、本来のヨーガが指導する実践的な「瞑想」とは、私の経験上から言って、まったく次元を異にするものです。
おそらく、これまでの仏教指導者は、本当の「瞑想」状態に至ったことがないために、逆に様々な観念的な解釈を考案せざるを得なかったのではないでしょうか?

「坐禅」に限らず、仏教にはそのような傾向が多々あるので注意しなくてはなりません。
外国人に「禅」が人気なのは、むしろそのような観念性ゆえなのでしょう。難しいからこそ、西洋にはない真理がそこにあるのではないか、と期待する。
それも解らないではありませんが、しかし現実から遊離した、観念的教えに価値があるとは、私には思えません。

「瞑想」はもっと手軽にできるのです。
コツさえ掴めば、朝の体操をするように習慣化できるのです。
そして「瞑想」は、やればやっただけのものを、あなたにもたらしてくれるのです。
「不安な時代」を生きぬくために、「瞑想」で心のケアをしましょう。
それでは一緒に、楽しんで「瞑想」をスタートさせましょう。

Let’s enjoy meditation, like a cooking together.

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運営者
今 成 宗 和
真理研究家
カウンセラー
1954年 生まれ
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